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これから

 投稿者:hotta@adagio.ocn.ne.jp  投稿日:2013年 3月15日(金)01時42分8秒
返信・引用 編集済
  東京振り子論
進展と補償の振り子
支点への回帰 支点よ 侵されざるものよ
気付かれない支点に鎮座する 輝かしい明晰判明 教科書のように
気付かない疲れた目のために 驚きの平面は必要なんだ
驚いても 依然として気付かない支点が笑う 忠実な学習者へのメッセージは明晰判明の平面だというのに
平面には 貌と象 川の流れとさざなみのように
プルーストは象を埋め時を隠す あらかじめ失われた時が叫ぶ ペンを咥えた狂った貌 平面に明々と写り
見出された時 再び書くこと 書きなおすこと 埋めること
気付いても 関わりなく 振り子は止まらない
学習者のための地名 サービスなんだよ 少し歪んだ虚ろな貌よ
何一つ失うことはなく 倒れようと ドクサを称えよう
明晰判明は変らない ドクサのシンフオニー クタバレ 想起を象どる盆栽屋


振り子の構造
一つの振り子の二分された像 繰り返しの同じ運動
あたかも自動のよう 隠された仕掛け 二分運動(ピストン)と相互連動する歯車の回転運動 重力とゼンマイの戻り力 恒常的な一定間隔の刻印 いずれにしても機械だが太陽の陰謀だ 隠れながら君臨する支点の王冠こそ 三角形の安定を信じたまえ まるで人生の杖だ とドクサ語がししゃりでる 振り子の強靭な狂気は美しい

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詩?

 投稿者:hotta@adagio.ocn.ne.jp  投稿日:2013年 1月21日(月)02時00分23秒
返信・引用 編集済
  「人生には様々な場面がある」(「様々」とは様々だ。おそらく言い尽くせない。)と一言で言えることを、明らかに読者を意識し、ありがちな「冬の冷気」「夏の熱気」などの陳腐な言葉で「象徴」して引きつけ、常套句の言い換えやこけおどしの省略やらの気の利いた修飾を連ね、「山場」として、一見「謎」を示唆するかのような「落しどころ」もあり、そんなこんなでまわりくどい言い方で20行もそれらしく書いて、最後に欠かせない決め手としてちょっとした「詩的感性」をひけらかして「さすが詩人」といわれるポーズするなんていうのが「現代詩村」の作法だ。夏冬の人生は詩人のそれなのだろうが、かく書けるほどに温和な季節のどこが悪いかと、まっとうなことをいっているのか? 読者に「様々な」人生をもっと体験しなさいとお説教しているのか?

そもそも読者には読者はいない。詩人には読者がいると思う事が特権意識なんだ。というか読者は自分の読者がいると100パーセント思っているから、詩人もその一人だと納得はする。金太郎飴地獄だ。

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王族の剣と内臓触景を夢見る硝子シーツに包まれた眼球

 投稿者:lkn  投稿日:2012年12月30日(日)05時42分24秒
返信・引用 編集済
  王族の剣と内臓触景を夢見る硝子シーツに包まれた眼球


夢は夢であり独立しその影像は瀧口修造がいう「霊感の肉体」であるとするならば、おのれの五官の中に収める分裂したわが身である影像とその感覚は、不在の最中を漂うとともに出現に慄く奇怪さとそれゆえの恐怖に満ちている。


「影像は人間に約束された無比な表現である。二つの宇宙に分裂された精の魔は恋愛のごとく、賽の目にも十字回転扉にも出没する。ここに燃える鍵が握られていた。そしてそこに優雅な幽霊屋敷の秘密が握られていた。かくして影像は霊感の肉体であった。足を真実へ渡してしまった精よ、ぼくの不具は優美である、汝はもはやこの世のものではない、汝の眼は銀河と見紛うほどである、汝の手はタングステンのごとくである、汝は棲息しない、汝は出現する。汝は恐怖せられる。汝は気味がわるい。汝の認識はぼくの肉体内のものである。汝の五官がぼくの五官であることによってのみ、ぼくは汝の出現を信じるだろう。 どうぞぼくのなかの星を摘み給え、ぼくの夢の波に漂う星屑を。」
             ((瀧口修造『夢の王族 一つの宣言あるいは先天的夢について』)


おのれの内臓をかきまわす全的に気味悪いミイラの手のように、他方で星を求めるのは恐怖のためだ。だが明るい星は不気味なものを消してくれるとしても、恐怖が現実の荒地にあるとするありがちな偏った認識のせいでそこからの逃亡、昇華脱却を図るというありがちな文脈を選ぶべきではない。恐怖はおのれの五官を食うためにそこから抜けられないというより恋愛のように執着する無限循環の夢の中にある。ならば、夢とはいえ、夢ならばこそ、「絶対官能」に隣接する恐怖に震える詩人の現実性とは? 星を求め夢の美学を口実に現実の荒地を易々と避けるとすれば、それは詩人にとって唾棄すべき妄想観念への無自覚でありがちな横滑りにすぎない。

瀧口のいう「夢の波に漂う星屑」が不死・フェニックスの星座をなしているとしよう。
おのれの不死を確信するフェニックスは、詩人によってフェニックス星座と名指されたその時いのちを失う。なぜならばそこで詩の夢は終るからだ。反対に見えないものは見えないものとなる。しかしこの見えないものが夢の星座・不死を確信するフェニックスとしていわばア・プリオリに見出され発動する。法則発動の現実は普通に客観的なものだからだ。それは詩の世界ではない。だからこそ「水色の空に描かれた蜘蛛の巣の地図とその繁栄の都市よ」
と瀧口は半ば象徴的に半ば示唆的にいう。蜘蛛の巣の地図に似た脳髄の細密画を得るように、詩人は現実の細密な地図を得ていなければならないというわけだ。脳髄の芯まで絶対官能に撃たれた詩人はこの鳥が見えないまま残していた客観の空の爪を奪い死の現実性を引き裂く至高の妖力を獲得する。天や神に憑かれることもなくむしろ虚妄の薔薇として空幻の森の点景に配置させる冷静な用意周到が生の現実性を詩人にもたらす。老獪なフェニックスの恍惚は、足下に敷く蜘蛛の巣の地図、現実をくまなく支配する戦略政治の緻密きわまりない地図、普遍性ゆえに透明な煙りにも変ずる地図を所有した時にこそ不死の現実性として輝く。詩の凡ての発見の有意義はここにかかっている。かくして、詩人自身はフェニックスとして再生する。完璧な思考の結晶たる詩の剣、王族の剣を揮い、荒地を嘆く観念の星座鳥を殺すために。


夢は霊感のための生存圏として永遠であった、夢は先天的だと瀧口は追いかけるように宣言する。夢想の先天的普遍性は意識においてある種の特権を主張する。というのは、ひとは効用世界を隈なく埋めるパズルチップのように事物世界に完璧に嵌る平凡な在り様から逃れられない、この窒息に耐えられなくなり特権を願い普通の夢と眼に見える政治にさえ救済を期待したのではなかったか。だが夢は当然に無効用世界にある。特権を根底的に無効にすべく「超現実」の概念に拠ったとしても王族という別の特権論理が宿根のようにここにある。といってもそれは滑稽でもあり必然の影に似た妄想の仕組みにちがいない。それゆえ「そこに飛ぶ虚妄の神よ、虚妄の薔薇よ、不思議の時間よ、謎よ!」と瀧口はいう。矛盾した汎現象的王的地位を眼に見えない「超現実」へ、透明人間の手品のようにあまねく平凡な移行を導く。特権はありえない。夢の霊感性は普遍的形容詞から名詞へと変質するよう求められる。何かものに憑いたありふれた名詞的なものだ。


霊感が名詞だというのは、実は写真のことにほかならない。写真は散乱する物・名詞と対等であるからだ。「霊感の肉体」を担い透明な夢として霊感が写真に現れる。写真は見えない。そこでの詩的言語は特権的な声ではなく、透明者内部のいわば無饗室で繰り広げられる無音に似た言語の戯れであるのだが、こういう無制約こそ王族にふさわしい。写真は王族の鏡だ。写真は「麗しい循環運動」として夢に見る詩的言語と物の世界を示すだけだ。不在の最中を漂うとともに出現に慄く奇怪さとそれゆえの恐怖に満ちた「霊感の肉体」・写真が夢の外にもう一つの物のようにある。散乱する世界はそのままだ。


瀧口が参照するキリコの『エブドメロス』。ほとんど一文ごとに場面が転換する断片の集積が連なる奇妙な小説だ。断片、といっても語と物は整然とした文の中で連結され何層にも複雑な物世界の細部を緻密に破綻なく描き、その様相が上層としてさらに美しい連結断片であるとともに、この美しい宝石断片の下層因果として「先天的」原因を必ず胚胎させているという手の込んだ構造だ。「驚き」についてのキリコ的接近が明らかにされる。描く物の配置の「特異さ」が驚きに通じるというのではない。「普通のひと」が「外見」についてのおおざっぱな知見で納得し見過ごすことに違和感をもってさらに「詳しく」知ろうとすることで、同じものごとにかの「驚き」に至る発見を得るという仕組みだ。別種の驚きの理由はほかにもある。「断片」の発見によって、世界は何も変更を付け加えられるわけではなく、このように接近するキリコに対して世界は盲目の顔を向ける。つまりキリコは透明人間として世界に触れる。詳細な細部への執着さえ世界の無関心によって支えられている、影が影を踏むような奇妙さ。おのれの内臓内部を恣意的に覗き掻きまわすとしてもその内蔵は同じおのれの肉体の(先天的)自律神経によっていわば勝手に動くのだ。乾いた驚きの理由はここにもある。生きたミイラのようにおぞましい世界の無関心は、じつは描く側に保たれている一種のノスタルジー、胚胎する愛しい先天的原理なのだ。キリコは描くことで誰に出会ったのか。出会わない人に出会ったのか。ミイラの内臓描写を想起させる息もつかせぬ連綿とした物と記憶を詰めた謎の宝石箱のキリコ。


もう一度瀧口を引用する。

「物の世界、あるいは想像の世界がある。想像は汎精神の現象である。要素の世界である。特殊的要素、それは鏡の迷宮における永遠の夢の謎であろうか。永遠に魅入られた探求の精神はつねに想像の鏡を潜る。ぼくを一瞬困惑さす鏡の間よ、それは還元しえない透明な結晶であった。夢はついに非描写的である。 皮手袋と羅馬の一画家における帰納的天才よ、これは彼の事業である。幼児の形而上学は彼に一つの愛の風景を贈ったのである。ぼくは再び一つの引用文によって仮にこれらの迷宮の扉の一つを閉じよう。
 《ぼくはといえば、ぼくはぼくの硝子の家に住むことを続けるだろう、其処はいつ、どのような人がぼくを訪ねようとしているかが見られる。其処は天井や壁に吊り下がっているすべてのものが宛も魔法なよって附着しているかのようである。其処は夜ぼくが硝子の寝床で硝子のシーツに休む。其処は早晩、ぼくは誰だろうがダイヤモンドに彫られたようにぼくには見えるだろう。》(アンドレ ブルトン『ナジャ』)」
                ((瀧口修造『夢の王族 一つの宣言あるいは先天的夢について』)


「物の世界、あるいは想像の世界がある」という簡潔な物言いの背後に横たわる世界の重さを感じないとすれば、「軽い」その「幸福」はありがちな仮象的特権者の凡庸な状況を示しているにすぎない。じっさい通念において哲学的定言もどきを口にすれば物化主体・糞の保護になるものだ。だが幸いにも?充満する物の世界はそのような糞を蹴散らす戦闘と戦略の修羅場だ。蜘蛛の巣の地図に似た脳髄の細密画、充満する物世界、探求の場である「想像の鏡の間」、そこに繰り広げられる帰納的「愛の風景」、そしてきわめつけは「還元しえない透明な結晶」である「硝子の家」に住む「ダイヤモンドに彫られた」「ぼく」。迷宮の扉の中の構造はこのようなものだ。「ぼく」を招く扉は鏡面であるのかもしれない。びっしりと隙間なく配置された物の世界とその一部である観察者の姿がそこにあるのだが、間違いなく、かく観察する探求者は鏡の中の透明な汎存在者だ。尽きない想像の輪の生成が永遠を志向する。絶対幸福の輝きがある。先の「簡潔な」物言いにならえば、いわば「二重思考」だ。押し寄せる波のような物世界を剣を持った王族の振る舞いでまさに物たらしめるもうひとつの片手には、王族にふさわしい鏡がある。剣と鏡による二重思考。戦場で血を流したのは彼の落ち度によらないし、荒地の中では落ち度だともいえない、と物の重さを写す鏡が軽やかに言う。

恐怖のため星を求め、恐怖が現実の荒地にあるとするありがちな偏った認識のせいでそこからの逃亡、昇華脱却を図っても無駄だ。扉のこちら側、つまり想像の世界の硝子の家の外は、キリコが収集した、荒地といえども空や雲もある帰納的絵画が示す一種の描写的小説世界であろうか。一つの表現である写真が物と想像の間の扉を開け動き出す。ガラスの家、箱、鏡、カメラを手にしてそこに写される世界を得るとき、幸福な観察者は透明な姿でつねにおのれが演じる小説世界の扉の前に立つ。現実と小説がはじまる。王族の剣と内臓触景を夢見る硝子シーツに包まれた眼球の小説。小説の扉の数は充満する物世界の様相の無際限に対応し、無際限だ。そして様相は帰納的であるにもかかわらず汎観察者の本来的気まぐれに相応しく幸福な偶然に満ちている。瀧口やキリコの絵や小説のように。 しかし永遠に相伴するフエニックスの写真なのにキリコの謎のように出会うことはない。王族の剣を持つ手と内臓触景を夢見る透明硝子シーツに包まれた眼球があるだけだ。それはミイラあるいは神、つまりひとつの無感覚物体である。


                             堀田展造  無感覚物体

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アルゴン君の幸福感

 投稿者:hotta@adagio.ocn.ne.jp  投稿日:2012年12月11日(火)05時14分18秒
返信・引用 編集済
  「居眠りは歓喜を少しも弱めず、中和もしなかった。目を覚ますと、体中に鋼鉄のゼンマイが仕掛けられていて、ぴんぴん跳ねてしょうがなかった。新しい日、新しい時、・・・・・黄金の粒子でできた輝く霧に包まれた明日が、そして更にその明日が、もっともっと多くのかかえきれないほどの明日たちが、ためらいもせずに待ちうけているのだ、アルゴン君は幸福そうな、いくらか持て余し気味な微笑を浮べた、今、この瞬間は、すべてが何物にもさまたげられず、あらゆる可能性の中で、彼の手によって創られようと待ちかまえている、輝かしい時なのだ。だが、その奥底に、かすかにうずく悲哀はなんであろう? 多分、天地創造の寸前に、神が感じたであろう、その悲哀に相違ない、微笑んでいる筋肉の傍らで、小さな筋肉が微かに慄いた。」



安部公房『魔法のチョーク』

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 投稿者:hotta@adagio.ocn.ne.jp  投稿日:2012年12月10日(月)05時09分56秒
返信・引用 編集済
  夜明けにはまだ届かない夜の真中あたりの時刻、コンビニに煙草を買いに行った帰り、ふと見上げた夜空に金色の星がひとつ輝いていた。乱視の目にはちらついてはっきりは見えないが、異様な輝きに見えた。目をこらすと大きな金色の星の斜め下に鈍く光る小さい星がある。空の色は青味がかった黒。大きい星は相変わらず金色だ。歩くたびに近づいていく感じがする。家のガラスドアの前に来ると星はずっと低く手が届きそうにも見えた。煙草と星をポケットに入れた。小さい鈍い星もつかんだかどうかわからない。

星といえば、カミユの『ヨナ』。ヨナは星のみを信じていた。愛するものたちを信じる「以上に」信じていた。信じつづけ倒れたヨナの仕事部屋である屋根裏部屋に残された空白の画布には、これが星なのかは明言をさけつつ、謎の言葉が小さく書かれていた。「solitaire孤独」と書いたのか、「solidaire連帯」と読んだらいいのか、わからなかった、という書き方で終る。

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羽虫の飛ぶ風景

 投稿者:hotta@adagio.ocn.ne.jp  投稿日:2012年11月22日(木)18時17分52秒
返信・引用 編集済
  羽虫の飛ぶ風景        中村稔


言葉にならないで怺えていたものたちが
一日の仕事を終えるころには
淡いえんじ色の嘆息となって私をつつみ
無数の羽虫のように飛びかっている。

辛夷や連翹の咲く花粉期、
皮膚の毛穴という毛穴から
羽虫たちは私のなかにはいりこみ
脳髄や内臓を喰いちらす。

ある花が別の花とちがうほどには
私が他人でないことも
他人が私でないことも
まことに不確かな関係の存在であって、

やがて私は蜉蝣のように透明になり
ある朝、死んでいるのであろうが
それでも私のまわりを無数の羽虫が
淡いえんじ色に飛びかっているであろう。



ひとつの転換が仕組まれる。私に襲い掛かる現実の課題の多さのせいだろうか「嘆息となって私をつつむ」羽虫の群れ。それらは言葉にならずとも「怺えていたものたち」の転換の入り口だ。詩の入り口に立つ者を迎える羽虫のざわつきは、嘆息、憂愁、「仕事」の重圧に塞がれた私のやりきれなさを表す。そして同時にむんむんと襲い掛かる羽虫の群れでもある。花々の花粉期、生物の繁殖期、毛穴が全開する敏感期、この季節にも虫どもは私の存在を根底から覆すかのように私の脳髄や内臓に侵入し喰いちらかす。羽虫群は私の在り様がなんであれ私をまるごと征服する。それは、転換、否定の契機として? 第三連の「まことに不確かな関係の存在」といういささか詩趣を欠いた概念的な言葉が説明の役割を果している。私は他人ではなく他人は私ではなく、私は何ものではなく、「やがて私は蜉蝣のように透明になり」捉えられない存在となる。その私の死後も飛びかうであろう羽虫。他人にも私にも生者にさえも属さない不確かな風景が露わになり、私は入り口に面しているというのに忽ちに脱出不可の羽虫の世界にすでに投げ入れられていることを知ることになる。そこに何者ともいえない者が横たわり、彼はきっと耳をつんざく羽虫の羽ずれの騒音のなかで聞こえないはずなのに鼓膜を震わせているのかもしれない。生者の妄想をもかき消すこの世のものとも思えない金属的な羽ずれの音。不確かだが必然でもあるそこで、転換は、生者の時間から、一気に死者の透明な感覚へと誘う。生者の血色に類似するえんじ色を纏った時間の色は、羽音が昂じるにつれ、高周波色域の紫色系えんじ色を基調にして、透明に隣接する限りない薄さとともに、無化される時間の色へと変る。淡いえんじ色の羽虫は、いつか透明な私のまわりを飛びかう同じ色の群れになる。不確かと形容される世界は連続し変容するグラデーションに彩られている。詩もまた作品のなかで変容する。

参照は類似性に引き寄せらて行われる。そこで一種の安心感、心地よさが醸し出されているのだろうか。類似の入り口から誘われ感じる本当の心地よさは、類似によって近づきはするが現実の感情に還元されない、それらの外面に接する詩の本質である膜の薄さ、滑らかさ、壊されない金属性に触れさせるからか。飛びかう羽虫の実体がないという不思議さに酔う。転換への、思考に内包する否定の契機を思考すべきだ。安直で残酷な同感ではなく、またこの作品が醸すやりきれない底知れぬ悲しみを飲み込みつつ、もっともっと強く生きるために。

やり場のない嘆息や仕事の重さに引き摺られて同感したところで、それが心地よいはずはなかろう。現実の関係に還元してやまない通俗詩は平気で同情や悲しみの歌をうたう。私ではない他人に向ける歌だから、これでもかと残酷のたれながしをやめない。他人ではない自分に向けるとしたら文字通りの自虐だ。

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 投稿者:hotta@adagio.ocn.ne.jp  投稿日:2012年11月21日(水)04時27分10秒
返信・引用 編集済
 


亀裂も枯渇もない水の滑らかな様態に安堵する
 としても 俺は 雲が孕む不安の雫にすぎない 雨季に特有の重い雫をぶら下げ 〈何か〉〈何を〉
――落下への誘惑 水膨れの脳器 は

〈巨大な雨雲から生まれたんだ 森も冠水し 同素である水の唇が激流に喘ぐ――薄青く光る異化の羽 夜通し溜めた思考の雫が脳に落ちる〉

雫の運命について思考せよ 朝焼けの空の穴へ? アスフアルト敷地の思考 土中に根付く繊毛の思考 雲を晴らすガラスカッターの思考 同じ雫であり純化した雫の中心に 遮るもののない気化への螺旋の陣痛に耐え

〈何か〉への もっと強力な磁力を放ち 不安を返すように真っ直ぐに逆噴せよ! 周到で精巧な企図の錫箔を拡げるべきだ! 羽化だ!
 おかげで俺はやっと立つことが出来た
(雫空に溢れる光胞子 網状の 鉱石状の 撒布文字を重ね)
 動くために 歩くために


白雨に濡れる広場に 石化した黒い根瘤が一つ


夜更けの交差点の真ん中で 精巧な蜘蛛の首骨ごとそっくり手に取る
蜘蛛は遠い密林に隠した銀糸の巣を想う
黒曜石の夜空 鉱油の海
ソプラノの水晶声帯を震わせ
一本の銀糸が軽々と球体幾何学の弧線を引く
夜明けの水色と薔薇色が夜光虫の幼虫を膨らませる
人里離れた沼湖に ミドリモが青々繁殖していた

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(無題)

 投稿者:hotta@adagio.ocn.ne.jp  投稿日:2012年11月19日(月)03時34分6秒
返信・引用
  ここ

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アルトー

 投稿者:j  投稿日:2012年11月19日(月)03時00分22秒
返信・引用 編集済
  「思考の新たな営為、諸関係の起動のきっかけと活気注入――、それも諸感情の関係ではない、一個の感情の内面への関係ではなくて、一個の感情の外面、一個の感情の位置、位階、重要度との関係、一個の思考の、もう一個の思考との関係における外面的、形象的な価値の関係、――そしてそれらの思考との関係における彼の諸反応の、彼のうちへのそれらの受容の価値、彼の襞、彼の性向の数々の価値、――これがランボーのもたらしたものである。」



   アントナン・アルトー『ピルボケ』豊崎光一訳 「全集1」現代思潮社


詩は諸感情の外面に位置することに価値がある。その価値は諸感情に還元されない、孤独な価値だ。詩の感情は、諸関係の起動すなわち現実の営為との内面的な関係にかかわる動力とは無縁の、「彼の襞」における別種の感情を指す。ここに通俗詩に対する厳しい一線がある。究極の思考がそれをもたらす。
誤解してはならないのだが、「無縁」とはありがちな独善的「仙人境」に隠居することではない。位置、位階からして「外面的、形象的」な物象への明晰なまなざし、感情に汚されていないまなざしが複眼のように鋭く煌々と併発し差し向けられている。「もう一個」のとはそういうことだ。彼は高貴なたたかう人だ。暇人がさらにもてあました余暇で書いたような気の抜けた「達観の詩」とは無縁だ。不満や嘆きの「詩的言い換え」なんかではない。アルトーなら「豚の詩」というだろう。

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正確な批評による友愛の出会いの場は天国・地獄どこであろうと一つだ

 投稿者:j  投稿日:2012年11月 8日(木)04時18分7秒
返信・引用 編集済
  と書いたが、陳腐であいまいだ。地獄の力をみくびってはいけない。そもそも「正確な批評」なんてありうるのか。

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