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科学手法発達史

 投稿者:Ken  投稿日:2018年 4月15日(日)22時01分48秒
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  疑似科学を論じる場が第3掲示板へ移るということなので、それを待つ間に、科学的手法というものが人類史の中でどのように発達してきたかという話をしてみようと思います。もちろん、私(Ken)自身がこのように理解しているということなのですが、情報源の大半を占めるのは、わが尊敬するアイザック・アジモフ先生の著書になります。

Asimov's Biography Encyclopedia of Science and Technology
Asimov's Chronology of the World
Asimov's Guide to Science
Asimov's Guide to the Bible
How Did We Find Out About~~~(シリーズ)

残念ながらアジモフの解説書・教養書は小説のようにもれなく邦訳されておらず、上記の著書の日本語版も私は見たことがないのですが。


(1)近代の科学

近代科学が古代ギリシャ以来の科学と決定的に異なるのは観察と実験を重視したことです。アリストテレスに代表されるギリシャ科学が演繹を主にしたのに近代科学は帰納を主にしました。思想史の中でその重要性を最初に主張したのは13世紀のロジャー・ベーコンとされ、HGウェルズなどは1920年に発表した世界通史で、ガリレオ、ニュートン、ラボワジエ、パスツールといった科学史の巨人以上にベーコンを評価しているくらいです。

古代ギリシャの科学が演繹(思索)を重視し、帰納(観察)を軽視したのは、幾何学の大成功にギリシャ人が満足し、同じ手法が万能と考えたからではないか、とアジモフは考察しています。なるほど幾何学なら、演繹的に導けないものを観察に基づく公理にするとはいえ、そのような公理は極限まで減らし、公理から演繹する定理を最大限に増やすことを目指します。同じ考えを自然科学に適用すれば、観察や実験などは必要最小限に抑えるべきという思想になることでしょう。そもそもギリシャ人は、プラトンなどが典型ですが、調和の天空と混乱の地上を対比させていたので、地上で起こることを観察しても考えが乱れるばかりで真実にはいたれないと考えたのです。

ただし古代ギリシャにもアルキメデスに代表される観察型の科学者はいたし、むしろ同時代の世界のどこと比べても、近代的な意味での科学も進んでいたのですが、彼らはギリシャ文明の中で主流にはなれませんでした。アルキメデスにしても、彼自身の著作として伝わるのは、数学のような演繹的なものばかりだとアジモフはいいます。そのとおりなら、比重を発見した有名な「ユーレカ」も周囲の人が語り伝えたエピソードなのでしょうね。

不運も重なりました。プラトンやアリストテレスがギリシャ自体の絶頂期を生きたのに、アルキメデスが生きたのはその衰退期だったのです。アレクサンダー大王の教師だったアリストテレスとローマの征服軍に殺害されたアルキメデスの運命はそれを象徴しているともいえます。

ギリシャ以来の伝統を破り、観察と実験から帰納することを最初に主張したのはベーコンですが、本格的に実行したのはなんといってもガリレオでしょう。ガリレオといえば、物体は重さに関係なく同じ速さで落ちるという実験が有名ですが、それは1つの事例であって、より重要なことは彼が「時間」を因子とした最初の科学者であったことです。運動の科学がこの時に誕生しました。振り子の等時性もガリレオの発見です。

とりわけガリレオの功績の最たるものは、ギリシャ以来の演繹に基づいて真理とされてきたことに、観察・実験の結果をもって挑戦したことでしょう。それまでは、理論と現実が合わないのは現実が不完全だからという考えが主流でした。なるほど幾何学では2本の平行線は無限に交わらないといいますが、現実世界ではどれだけ精密な定規を使っても完全な平行線を描くことはできず、結局は交わってしまいます。これと同じ考えがあらゆる自然科学にも適用されていました。それがガリレオ以降は現実と合わない理論の方が間違っているという考えが支配します。観察や実験だけならガリレオ以前にもやった人がいたでしょうけど、このようなパラダイムシフトは起こせませんでした。


さて、初めに現実の観察がありそこから理論を帰納する近代科学が成立して四百年近くが経ち、多くの観察から多くの理論が構築されてきました。その量が膨大になり質が複雑になった結果、1つの問題が生じています。

それは科学を学ぶ人にとって、学ぶべきことがあまりに多くかつ複雑になった結果、科学の正しいステップを踏む余裕がなくなったことです。私の学生時代もその典型でした。本来なら、物理学にせよ、有機化学にせよ、DNAの働きにせよ、教わった理論を疑ってかかり、検証するのが正しいステップのはずですが、そんなことをしていたら授業についてゆけなくなる。しかもその傾向は高等教育に進むほど強くなります。一般には、中学や高校で教わる内容より大学で教わる内容の方が歴史的に新しい発見で、それだけ疑うべきはずであるのに。例えば力学を学ぶ大学生が、減衰系の強制振動なんかを教科書で読んだら、数式を追いかけるだけで疲労困憊、最後まで辿り着いた時は精も根も尽き果て、学んだことを疑って検証するどころではありません。しかも新しい項目は次々と現れるし、試験は容赦なくやってくるのです。

こうなると学生は(社会人も?)否応無くギリシャ時代に「先祖がえり」して、理論ばかりを詰め込み、理論と合わない現実に遭遇しても理論を信じるしかなくなります。しかも結局はその方が正しいケースが圧倒的に多いのですから、ベーコン、ガリレオ以来の近代科学の手法は万人に支持されたままで、現実から消滅するかもしれません。

アジモフ先生などはそのことを憂いていました。そのことへのアジモフなりの解答として、彼の科学解説書はほとんどが歴史書の形体をとっています。例えば宇宙の話をするにも、いきなり最新の宇宙論を述べるのでなく、古代エジプトやバビロニアの天文学から説き起こし、エラトステネス、アリスタルコス、プトレマイオス、ティコ、ケプラー、ガリレオ、ハレー、ハッブル、ガモフ、アインシュタインそしてホーキングなどの事跡を紹介する形で現在の宇宙論が形成されてきた過程を語るのです。最新理論だけを知りたい人には回りくどいと思われるのでしょうけど、科学のあるべき姿を理解するにはどうしても必要と考えたのでしょう。



(2)ギリシャの科学

古代文明の金字塔というべきギリシャの科学はいつどのように成立したのか? 真の起源はだれにも分からないにせよ、私たちが知る歴史では、その開祖はタレスでしょう。紀元前600年ごろ現在のトルコ領小アジアに住んでいました。タレスは幾何学を学問として興し、電気と磁気の現象を研究し、バビロニアの天文学をギリシャ世界に紹介し、万物の根源物質は水であると主張した人物として伝わっていますが、彼とその学派の最大の功績は、この世の森羅万象は神や悪魔の恣意的な決定ではなく、人間にも理解可能な言葉で表現できる法にしたがうという考えを始めたことでした。思想としての科学の誕生といってよいでしょう。

タレスたちは神を否定したわけではありませんが、造物主の神といえどもその法には従うのです。タレスの思想を継承したのが前500年頃活動したヘラクレイトスで、世界を創った合理的な理論をロゴスと呼称しました。ロゴス(logos)は知識の体系でもあり、例えば、生物(bio)の知識体系をバイオロジー(biology)、大地(geo)の知識体系をジオロジー(geology)というように、現代の科学用語にまで影響を与えています。

おそらく現実の古代ギリシャでは、ロゴスに従う神も、従わず自由にふるまう神も、両方が信じられていたはずです。神託を受けるデルファイ神官などがいたのは、ロゴスだけでは神の意思は分からないと思われたからでしょうから。それでも、人間が理解できる法に神が従うという思想は、同時代の、というよりずっと後世まで見ても、世界のどこにもない特徴でした。西洋世界にこのような思想があったことは、社会を統治する原理としての「法の支配」が同じく西洋で成立したことと関連があるのかもしれません。

自然界でおこることがロゴスに従うという発想があれば、そのロゴスを、つまり現代でいうところの科学理論を、求めようとするのが人間です。

例えば、古代エジプト人は長い紐に結び目を作る形で12等分し、それで1辺の長さが3と4と5の三角形を作ると長さ3と4の間に直角ができることを経験的に知っており、測量に実用していました。これを知ったギリシャ人は、なぜそうなるのか、その事実の背後にある理論(ロゴス)を明らかにしようとしました。その成果がピタゴラスの定理です。直角をはさむ2辺の2乗の和は斜辺の2乗と必ず等しくなる。3と4と5は1例にすぎず、5と12と13でも、7と24と25でもそうなる。大切なのは数字の組み合わせではなく普遍的な理論なのです。

ロゴス思想に始まるギリシャ科学は大きく発展し、そのまま近代に進む可能性があったかもしれませんが、そうはなりませんでした。上で述べたように演繹ばかりを重視し帰納を軽視(というより排除)するのでは限界があったことでしょう。さらには万物を支配するロゴスへの信頼と畏怖が極大化した結果、ロゴスとは実はそれ自体が意思を持つ神であるという、本末転倒な発想が現れたのです。ギリシャでもそれがありましたが、ギリシャ文明の影響を受けた地域でそういう考えが発達し、やがてはギリシャやローマに影響を与えるまでになったのです。それは独特の宗教をもつユダヤの地でした。

いうまでも無く、ユダヤには昔から「聖書の神」の信仰がありました。アレクサンダーの征服でギリシャ文明が伝わると、いわゆるヘレニズム文化の影響を強く受け、ギリシャ思想とユダヤ思想を習合させる試みが行われます。奈良時代の日本でも外来の仏と日本神話の神が習合しましたが、紀元前後のユダヤでも同じことが起こり、聖書の神とロゴスは同じ存在であるという思想が現れるのです。タレスやヘラクレイトスが聞いたら腰を抜かしたに相違ありません。いやモーセやイザヤのような聖書の神の「預言者」が聞いても神への冒涜として怒り狂ったことでしょう。

このような「ロゴス=聖書の神」の思想を明確に語るのが、新約聖書です。

~そして言葉は肉となり、我らの間に居住した~ (ヨハネによる福音書 1章14節)

新約聖書の原文はギリシャ語で書かれていますが、ここでいう「言葉」がロゴスのことです。「肉」というのは現世の肉体のこと。人間の肉体をもって地上世界に現れた神の子イエス・キリストを指すのはいうまでもありません。「言葉が肉となった」とは「神が人間の肉体をもった」という意味なのです。これがキリスト教の思想としてギリシャやローマに逆輸入され、その後の西洋思想を支配しました。

ギリシャ科学を興したロゴスも、こうなると科学のための何の役にも立ちません。近代科学はギリシャの演繹主義を克服することで成立したと上で書きましたが、そのギリシャ科学自体も長く忘れられていました。近代の科学は、ギリシャ科学を復活させる第1段階とギリシャ科学を克服する第2段階を経て成立したといえます。



(3)最初の科学者

では歴史に残る最初の科学者はタレスなのか?

アジモフなどはそう考えていたように思われます。でも私はタレスより3世紀ほど昔のある人物を挙げたいと思います。ここまでは、主にアジモフの考えを私が解釈した内容で書いてきましたが、この1節は、アジモフの著書から情報を得ていますが、考えは私自身のものです。紹介するエピソードは旧約聖書の列王記第一書に記載があります。

~古代イスラエルのアハブ王は神(聖書の神)に背き、邪神バアルを信仰していた。神(聖書の神)の預言者エリヤは、バアルの司祭たちと彼がそれぞれの神に祈り、どちらの神が奇跡を起こすか競うことを申し出、アハブ王の許可を得た。両者の対決はカルメル山で実現し、エリヤの勝利に終わった。バアルの司祭たちがいくら祈っても何も起こらないのに、エリヤが神(聖書の神)に祈ると、祭壇に天から火が降った。勝ったエリヤはバアルの司祭たちを処刑した~ (列王記一 18章)

私が感銘を受けたのはアハブ王がそのような対決を許可したことです。彼は、どちらの神が本物か実験で確かめようとしたのです。

現代の私たちが古代人の心境を推し量るのは難しいことですが、諸文献から分かるのは、当時の人にとって信仰は命がけだったということです。神に背くことはもちろん、わずかでも神を疑っただけで神罰で病気になったり命を落とすという話が、旧約聖書にも他の神話にもふんだんにあります。アハブ王はそのような文化の中で生きていた人であり、バアルを信仰していたにも関わらず、その神をテストしたのです。しかも別の神と競わせることで。もしバアルが真の神なら、疑った王自身が最も悲惨な死に方をすると恐れたことでしょう。それでもアハブは実験に踏み切りました。

この話には背景があり、そのころイスラエル王国は旱魃に悩まされていました。雨を呼ぶには神に祈るのが当時の慣わしで、当然アハブはバアルに向けて雨乞いをするはずでした。しかしエリヤの説得を聞いた彼は、もしかしたらエリヤの神の方が王国に雨を降らせてくれるかもしれないという気持ちを生じたのでしょう。国のため、人民のため、アハブは危険を冒す決断をしたのです。これは、例えていえば、近代の医学者が新しい治療法を自分の肉体で試すのに匹敵する勇気というべきです。ジェンナーは子供で華岡青洲は妻の体でテストをしましたが、アハブ王は彼自身を危険にさらしたというべきでしょう。

神(聖書の神)の奇跡を目撃したアハブは一旦はエリヤに従い、バアルの司祭たちの処刑も認めましたが、あくまでもバアルを信じるイゼベル王妃に説得されてバアル信仰に戻り、エリヤは亡命しました。そのせいでアハブは、福音書に登場するヘロデと並んで、バイブル中の悪王の双璧のようにいわれています。しかしながら、彼の王としての実績を客観的に見ると、むしろ優れた君主であったことが伺えるのです。

このころイスラエル王国は北方のアラム人に攻められ、首都を包囲される苦境に陥りました。ここでアハブは出征してアラム軍を打ち破り、国難を救ったのです。アハブはさらに勝利を重ねアラム人の国を逆に追い込みましたが、異教徒アラム人を滅ぼせという神(聖書の神)の預言者たちをしりぞけ、むしろ同盟国として残す政策をとり、このことが次なる国難を救うことになります。このころ、後に覇者となるアッシリア帝国がすでに興隆しており、イスラエルにも征服の手を伸ばしてきましたが、イスラエルとアラムの連合軍がカルカルの戦いでアッシリアを阻止しました。アハブの国はしばらく安泰でしたが、息子の時代に逆臣に簒奪され王家が倒れます。その後のイスラエルはアッシリアの属国に成り下がり、アハブの死後約130年で滅亡します。

記録に残る最初の実験を行ったアハブは、当時では合理主義者だったにちがいなく、だからこそ君主として優れた仕事ができたのでしょう。私としては、人類最初の科学者の称号は、この「稀代の悪王」に与えたいと思います。
 
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